​昆虫標本コレクション文化の歴史(世界史編)

 現代まで脈々と、そして細々と続いているアンダーグランドな趣味とも言える昆虫標本収集。その、文化は一体いつから始まったのだろうか?コレクターであれば一度は疑問に思ったことがあるかもしれないが、残念ながらこのコレクション文化の歴史についての概要をわかりやすく解説した文献や書籍が見当たらないのである。当サイトは標本のコレクションをテーマにしており、また私自身が大学で17-19世紀頃の昆虫学史についてしていたため勉強していたため、折角なのでその歴史についてサラッとここに記してみたいと思う。意外と知られていない標本コレクション文化の成り立ちを、へーこんなものもあるんだなぁ~...程度で構わないので知っていただけたら幸いである。

 

​標本のコレクションとは

 人が昆虫標本を収集する理由は大きく分けて2つある。1つ目に最も単純明快な理由としてが人間の「物欲」からくる収集癖でありが挙げられ、2つ目に学問としての自然科学研究のための「サンプル」として使用が挙げられる。「死んだ昆虫を長期にわたって保管したもの」を標本と定義するならば、紀元前に既にエジプトにおいてスカラベが装飾品として使われていたりするなど、その例を挙げれば有史以前から枚挙に暇がない。しかし理由はどうであれ、昆虫そのものを蒐集対象として意図的に保管したものを標本と定義するのであれば、その文化の歴史は16世紀ごろの欧州にまで遡る。 

 

1. まだ見ぬ珍獣を探して探索調査へ(大航海時代~17世紀)


 歴史の教科書に登場するコロンブスらが活躍した大航海時代が幕を開け、ヨーロッパ諸国が世界中に支配を拡大すると、現地に植民地を築き上げ世界規模の物流網が完成していった。広大な未開の地のジャングルには、ヨーロッパに存在しない鉱物や食料といった物資が眠っており、当然そのような場所を統治下に置いている国々は国力をあげて開拓に躍起になった。さて、開拓に際して各国の政府は専門家を派遣して、その土地について調べ上げる現地探索調査、いわゆる「expedition」を、数多く実施した記録が数多残っている。そしてその現地調査で得られた動植物は、研究やスケッチのために死んだ状態のまま長期にわたる保存の必要性が生じる。これこそが、今に通じる最も初期の標本のコレクション文化の夜明けである。

 イタリアのウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi)は、16世紀後半に活躍した博物学者として名高い。彼がボローニャ大学で動植物の研究に没頭していた頃には、昆虫においてもかなりの数の標本を所持していたと思われるが、残念ながらアルドロヴァンディをはじめとする当時の研究者たちによるある程度のまとまった数の昆虫標本コレクションは恐らく現存していない。長年の月日が経つうちに、当時の不十分な管理のせいで害虫や紫外線によって破壊されてしまったのだろう。

 現代のような公共の研究施設としての博物館が存在しない当時は、探索調査で得られた貴重な標本は研究者などのごく限られた人間しか観察することができなかった。しかし彼らはその代わりに精力的にイラストをふんだんに使った「図鑑」を執筆し、未開の地で出会った未知なる生物についての知見をヨーロッパの知識階級層に広めていった。

 例えば、1648年に出版されたオランダ人博物学者ゲオルク・マルクグラーフ(Georg Marggraf )の当時のオランダ領ブラジル探索レポートである"Historia Naturalis Brasiliae "中に見られるヘラクレスオオカブト Dynastes herculesの図は、本種の歴史上最も古い学術的細密画である。甲虫といえば大抵が数センチほどの大きさのコガネムシ、最大でもヨーロッパミヤマクワガタLucanus cervusしか見たことのない当時のヨーロッパの人間にとって、このような巨大で恐ろしい形をした昆虫がこの世に存在していることを初めて知った時の衝撃は計り知れないものがあっただろう。このマルクグラーフによる大著"Historia Naturalis Brasiliae"には彼がアマゾンで出会った数々の珍獣が数百点を超えるイラストとともに紹介されており、手に取り読んだ人間にとってはきっとどれもが目新しかったはずだ。

まとめ

 ‐大航海時代後に活動拠点を世界中に広げたヨーロッパ人は、探索調査などによって未知の昆虫を発見していた。

 -ごく一部の人々は限られた研究者以外の人々は、研究者たちが執筆した図鑑やレポートを通じて海外の昆虫の存在を知ることが出来た。

2. 富裕層の道楽としてのコレクション文化(16世紀~18世紀前半)

 描かれたイラストを通してしか見ることのできなかった数々の「珍獣」は、はじめのうちは多くの人々にとって実物を見ることが叶わない幻の存在であった。しかし、時代が経つにつれ国際的な物流規模が拡大し、オランダの東インド会社などをはじめとした多くの流通コネクションをもつ貿易会社が、世界中から様々な物資を持ち帰るついでに「珍獣」もその副産物として持ち帰るようになった。

 当時は三角貿易と呼ばれる奴隷貿易の最盛期であり、これは大西洋を隔てたヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸(西インド諸島を含む)の三地域間で行われていた貿易である。資源や物資が多く眠るアメリカを開拓するのには開拓のための労働者=奴隷が必要であり、ヨーロッパ人がアフリカ西部で奴隷を確保し、それをアメリカ大陸へ送って土地を開拓させ、その開拓によって得た物資を今度はヨーロッパに持ち出すというシステムであった。

 これによって当時アムステルダムなどをはじめとした欧州の主要都市では連日のように世界中から多くの珍しい物品が到着し、それを求める上流階級との間で活発な経済活動が行われた。このような商品を買い求めに来る裕福な層の中にはコインや工芸品を集めるコレクターも多くいたが、中には「珍獣」を求める人間も出現した。動物の標本に限らず南国の美しい貝殻やサンゴなど、形の珍しい動物標本にコレクション的価値を見だす文化が形成されていったのだ。購買層である上流階級の人間は必ずしも博物学的な知見を備えていたわけではないが、単純に貴重であり珍しいものをコレクションするというのはステータスであったため、特に貴重な動物標本は高額で取引されるようになっていったのは必然である。

 

 彼らの膨大なコレクションを収蔵したプライベートルームは「脅威の部屋」「Cabinet of curiosities」「Kunstkammer」と呼ばれ、17世紀には個人で巨大なコレクションを所持するコレクターがオランダやドイツを中心に現れた。

 オランダ人医師のフレデリクス・ルイシ(Frederik Ruysch)は解剖学者であり、奇形児を自身の開発した液浸標本でコレクションした事などで広く知られているが、彼は昆虫や動物の標本の蒐集も先の東インド会社やコレクター同士での交換によって入手していた。同じくコレクターとして当時名高いアルベルトゥス・セバ(Albertus Seba)も数千もの動植物標本を蒐集したが、彼らは多くの標本をロシアの大帝、ピョートル1世(Pyotr I Alekseevich)に売却するなど、国境や王室を跨いだ貴族間での格の高い道楽としてその文化が浸透していった。

 

 17世紀末には昆虫や植物など自身の専門分野のみコレクションし、国を超えて名の知れ渡るコレクターが多数出現した。そしてここに、ヨーロッパにおける標本コレクション文化が円熟を迎えるのである。

まとめ

-奴隷貿易などを通じて、昆虫標本が世界中から欧州に送られてくるようになったおかげで研究者以外の富裕層も標本を購入できるようになった。

-富裕層の中には物珍しい昆虫をコレクションの対象としてみなす、大規模な蒐集家が出現するようになった。

3. 分類学的標本コレクション文化の開花(18世紀)

 昆虫標本のコレクション文化がすっかり定着した17世紀末、イギリスのロンドンにジェイムス・ペティヴァー(James Petiver)というコレクターが現れた。彼は昆虫に関して人並外れた熱意を持ったコレクターであり、当然まだ「標本商」など存在しない時代において5000点以上もの昆虫標本コレクションを作り上げた。彼は世界各地の植民地へ派遣される士官などへ頻繁に「現地で昆虫を発見したらこのように保管して送ってほしい」といった細かなアドバイス記した手紙を生涯に渡って送り続け、コレクションを拡大していった。

 彼は同じくロンドン出身の医師・植物学者ハンス・スローン卿(Sir. Hans Sloane)という生涯にわたって付き合いの続くコレクター仲間を得るが、スローン卿はペティヴァ―と異なり、動植物の標本以外にもコインやメダル、書籍、絵画、なんでも蒐集する「ロンドンのガラクタ屋」と呼ばれたコレクターであった。ペティバーの膨大なコレクションは彼の死後に4000ポンドでスローン卿に引き取られ、そしてスローン卿の死後にスローン卿自身の昆虫以外の蒐集品を含めたコレクションが当時のイギリス政府が一括で買い取られた。そしてこのスローン卿が残した莫大なコレクションこそが、何を隠そう1753年に設立された大英博物館の基盤となるのだ。

スローン卿(ペティヴァ―)のコレクション(NHML coll.)。私の知る限りでは、その確かな出展を確認できるものでは現存最古のコレクションだ。年代のはっきり分かっている標本ではスローン卿が1687年にジャマイカで採集したモンシロチョウの仲間や、オックスフォード大学のホープ昆虫学科にある1702年のラベルがついていタテハチョウの仲間の標本があるが、この標本はスローン卿以前の所有者たちによる経緯の歴史を考えるとそれらより古い1650年頃の標本が含まれていると推定できる。


 さて、大英博物館が設立された1753年、そして一般に向けてのオープンされた1759年の間というのは、昆虫学史においても大きなターニングポイントを迎えた時期である。それは1758年出版の「分類学の父」と称されるスウェーデン人博物学者カロルス・リンナエウス(Carolus Linnaeus、カール・フォン・リンネともいう)による自然の体系"Systema Naturae" 第10版で記された動物における二名法の登場である。このリンナエウスの二名法はいわゆる現在使用されている「学名」であり、つまり出版年の1758年以前における学者は「学名」を使用せずに、好きなように名前をつけて生物を呼称していたのである(正確にいうと彼の二名法が完全に定着する19世紀前半までこの風習は続いた)。例えば前記のマルクグラーフによるブラジルでの探索調査をまとめた図鑑 (Marggraff, 1648)では、ヘラクレスオオカブトを文中で「タウルス・ヴォランス Taurus volans(​直訳で空飛ぶ牛の意)」と紹介していたり、その他にも様々な研究者によって「flying Bull(空飛ぶ牛)」「rhinoceros beetle(サイ甲虫)」「Scarabaeus Buceros Nasicornis genant(大きな鼻の角の甲虫)」などと呼ばれるなど、2名法どころか3名、4名と、統一感のない抽象的な名前で呼称されていたことがわかる。

​ 大英博物館の様な大規模な研究施設としての博物館の誕生によって、次第に上流階級が個人的な展示室として所持していた「驚愕の部屋」は、研究者たちが標本を研究対象として保管するための施設へと徐々に変貌を遂げていった。これまで「鑑賞物」としてしか使用できなかった標本が、分類学のための大切な資料になると判明し、コレクションに学術的な価値を見だすようになったのだ。

 

 実際、18世紀の分類学の発展は、こと昆虫標本コレクションの文化に大きな影響を与えたのは疑いようがない。当時分類学は「学問の王道」と称され、名のある研究者たちはこぞって各地のコレクションを訪ね、記載し、ありとあらゆる生物の分類を体系化しようと躍起になっていた。これまで「タウルス・ヴォランス」としてひとくくりにされてきた数百種ものカブトムシに学名を与える作業を行わなければならかったのだから、画期的かつ非常に多くの可能性に満ちたまさに最新の学問であったことは容易に想像できるだろう。この一大ムーブメントは人々をさらに世界中のジャングルの奥地へ駆り立て、これまで自身の物欲を満たすために蒐集をしていた上流階級層が、今度はそれを学術に結び付ける動きに繋がっていった。

まとめ

-二名法の誕生や、分類学ブームが到来する。

-これまで富裕層欲求は満たすために大規模なコレクションを作り上げていたが、分類学的な研究に使用されるようになったことで次第に学術的なコレクションの価値を見だしていく。

4. 標本商黄金時代(19世紀~20世紀)

 

 標本ビジネスにおいては、はるか昔より標本に一定の価値が認められた時点から行われている。それは自身の欲求を満たすためだけに売買していた17世紀の貴族の道楽であった時代から、標本に学術的価値を見だして採集を行うことで収入を得ていたアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)が行う時代まで、いつの時代も変わらずに存在している。しかし現在でいうような、標本をコレクター向けの、標本をビジネスのアイテムとして扱うような大規模な「標本商」が成立し始めたのは19世紀の半ば頃であった。

 

 ここからは19世紀以降に誕生した有名な標本商やコレクターをいくつか紹介していきたいと思う。

 まずはじめに登場するのはロール(Hermann Rolle)やフルシュトファー(Hans Fruhstorfer)シュタウディンガー(Otto Staudinger)といった、ドイツの標本商である。19世紀後半、ドイツ国内においては貴族以外の一般層の人間でも(裕福な地位の人間に限るが)標本を趣味として収集できる時代になっていた。そんな最中、本業は学者や医者として活動しつつ、自身が世界中に持つコネクションを利用し、たくさんの標本を収集する事が可能な人物が現れ始めた。

 当時はまだまだ世界は未開の地に包まれており、新規で採集エリアを拡大すれば珍しい昆虫が手に入り、そういったものは富豪のコレクターや博物館に高く販売することが可能であった時代だ。いいものが採れたら金になる、これは開拓余地のあるビジネスとして最高の時代であり、このような時代背景があったからこそ彼らのような巨大な標本商が続々と誕生した。
 

 

​ 

ロールとフルシュトファー、2名のドイツ人標本商のラベルがついた標本。これらのラベルの付く標本はヨーロッパの市場や、稀にヨーロッパにコネのある日本人コレクターの放出品に交じっていることがある。

 ドイツと並んでコレクション文化が広く浸透したのはフランスであった。1840年代になると、パリ大学教授のネール・ブービー(Nérée Boubée)はパリに店舗を構え、研究者以外の一般層に向けても観賞用の剥製や標本の販売を開始した。このような個人ディーラーの増加によって、昆虫標本コレクションという文化が大衆にも徐々に認知されていくことになる。

 フランスのル・ムールト(Eugène Le Moult)といえば、歴史上最大の標本商であったとっても過言ではない桁違いのスケールを誇る標本商だ。生涯に渡り取り扱った標本数は2000万点を超えると言われ、しかも彼の個人コレクションは大英自然史博物館、パリ国立自然史博物館、イギリスの投資家ロスチャイルドコレクションに次ぐ世界有数のものであったらしいことから、販売用のコレクションを合計したらどれだけの数になっただろうか…(もっとも、販売兼コレクション用も多数占めていただろうが)。ル・ムールトは幼少期より当時はまだ未開の地であふれていたフランス領ギアナにて、モルフォをはじめとした昆虫を次々に採集し、やがてそれを巨大なビジネスに成長させていった。彼が得意としていた南米産の虫に限らず、パリにショップを構えてからは世界各国からの虫を精力的に収集していったことにより、彼のコレクション中には世界中の昆虫が見られる。

ブービーが販売したコレクションボックス。箱には彼の名前と店の住所が記されており、ラベルも本人の直筆だと推測できるが、標本に関しては配置がばらばらになってしまってる。1840-1850年代のものであるはずなので、長い歴史の中で誰かしらが手を加えたのだろうか。

ル・ムールトのコレクション。彼のオリジナルラベルはかなり小さなものである。当時にしては比較的珍しい採集方法を記したラベルまで付属しているが、これは1枚だけ紙質が異なること、そして英語で書かれていることから別の標本に元々ついていた可能性がある(そもそも彼がメダンへ訪れたことのある可能性はかなり低いだろう)。

イギリスの名家、ロスチャイルド家の第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild)はル・ムールトと同年代に登場した、彼の得意とする顧客の一人だった。奥本大三郎著の「捕虫網の円光―標本商ル・ムールトとその時代」(中公文庫)に掲載されている、ル・ムールトがロスチャイルドにあてた1回の標本の請求書では、合計で1210ポンドという破格の金額が見える。これは奥本氏によると当時車が1台300~500ポンドで買えた時代だったとのことから、この事実を考えると全く恐ろしいものである。ロスチャイルドは自身のコレクションを収蔵するために博物館(Museum Tring, 現在は大英自然史博物館の別館となっている)を建てた程の、歴史上有数の個人コレクターである。

 標本事業の顧客はロスチャイルドのような大家だけではなく、一般の高所得者層にも多い。例えばアレクサンダー・フライ(Alexander Fry)はブラジルで自身で採集をしながらも、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)やフレデリック・パリ―(Frederic Parry)といった歴史に名を残した昆虫学者のコレクションを購入し、20万点にものぼる標本数を集めた。

 ビジネスで成功した人間では、ジョン・チャールズ・ボーリン(John Charles Bowring)は当時のイギリス領香港でのビジネスマンとして活躍し、彼のコレクションから後に多数の標本がタイプとして指定されることになる。昆虫専門のコレクターでない人間であっても、当時ヨーロッパには「アマチュア」のコレクターが多数いたようで、例を挙げてみるとイギリスの実業家であり動物学会のフェローであったハーバード・エリス・ノリス (Herbert Ellis Norris)などは、彼は自身は昆虫を研究することは無かったものの、数多くの昆虫標本を蒐集した。


 このように当時は18世紀のような貴族階級の趣味ではなくなったものの、まだ富裕層の趣味とされている風潮があったことは否めない。現在ではどのような標本でも大抵安く買う事ができ、これは言い方を変えればそれだけ標本蒐集における間口が広くなった良い事だとも言える。しかし、当時のまだ世界中に未知の巨大種が満ち溢れ、それを我先に入手しようとリアルに札束で殴り合う道楽としての標本コレクションというのはどれだけロマンがあって素晴らしかっただろうか...

ロスチャイルドの私設博物館で、現在は大英自然史博物館の別館であるトリングミュージアム(Mus. Tring)のラベルが付いた標本。この標本にはフランス昆虫学会のでありフェローでありクワガタの専門家であったボアローのラベルが付いていることから、彼が研究のためにトリングミュージアムと交換で手にしたものであると推測できる。

ノリスコレクションのアヌビスゾウカブトMegasoma anubis 。このコレクションは元々はノリスの死後に、彼のコレクションを基に建てられたノリスミュージアムに保管されていた。88㎜と本種においては巨大な個体だが、ノリスはこの大きさの価値をわかっていた上でコレクションしていたのだろうか...?

まとめ

​-現在のような保護を目的とした規制もなく、標本の市場規模が拡大していくなかで巨大な標本商が出現する。

 

-ごく一部の限られた富裕層の趣味であった標本蒐集が、巨大な標本商の誕生により一般市民にも徐々に浸透していった。しかしまだ当時は金銭的に裕福な人間の趣味であった。

 

5. これからのコレクション文化(21世紀~)

 

 さて、こうしてざっと標本の歴史を振り返ってみたが、100年時代を遡っただけでも現在と当時では全くコレクションのスタイルや文化そのものが変容している事に気がつく。

 とある収集家は現在の我々は標本は「終わった」時代に生きており、かろうじて楽しめたのは今の業界の最年長世代だったという。たしかに現在「大コレクター」と称される方々が熱心に標本を集めておられたであろう時代はまだ自然保護に関する規制も殆どなく、自由に入手を楽しめる時代だったのかもしれない。

 

「終わった」世代を担う我々は、今後100年の標本業界の変貌をどのようにして見ていくのかを否が応でも見続けていかなければならない。次々と変化していく標本の歴史の次なる1ページはどのようになるのか...。