
「ラベル落ちの標本は無価値」という認識を改めよ
Last update: 10. Feb. 2026.
Text: Kazuho Kobayashi
■「ラベル落ち」とは?
よくSNSを拝見していると、「ラベル落ち(なし)の標本は価値がない」という投稿を見かけます。
「ラベル落ち」というのは、「本来昆虫標本とセットであるべきラベルが、何かしらの理由でなくなってしまっている状態の標本」のことです。
ラベルには標本の採集地、採集年月日、採集者など、科学的な研究の際に重要なデータが書き込まれています。このデータが失われてしまうと、その昆虫標本を研究に使用することが難しくなるのです。
つまり、基本的に研究に使われることを念頭に置いて標本は作製されるわけですから、ラベルは標本そのものの価値の大部分を担う大切な役割をはたしているのです。
■「ラベル落ち」は価値がない?
少し前の話になりますが、いつだったかそれなりに有名な研究者の方が「ラベルがない標本だったので全て破棄しました」といったような投稿をされていたのを見かけました。また、似たような「ラベル落ちの標本は無価値である」といったような趣旨の投稿を定期的に目にします。
「ラベルがなくなってしまった標本は研究に使用できない(=無価値)のだから、ちゃんとラベルを付けることを忘れないようにしようね」、という啓蒙活動的な部分もあるのでしょう。しかしながら「無価値」と決めつけてしまうのはいかがなものでしょうか?
確かに「無価値」と言い切ってしまう方々の意見も理解できないことはないのです。
ラベルの欠損により、種の同定が困難になってしまったり、地域ごとの個体群の特長を理解する際の妨げになってしまったりと、研究上で様々な弊害が生じてしまうことは事実です。
そのため我々標本を扱う人間は、「標本を作製したら必ずラベルを必ず書こう!」と、日頃から口酸っぱく言われます。もちろん私も大学で教授からそう注意を受けましたし、現在私が指導している学生にもサボらず作成しようと教えています。
しかしいつの日からか、確かにラベルを書くことは大切であると理解しつつも、なぜかそこから「ラベルが無い標本は価値がない」と、だいぶ跳躍した考え方が定着してしまったように思えます。
特定の研究者の、特定のジャンルにおいては確かに無価値なのかもしれません。しかしこの認識が広く(主に)アマチュアをはじめとした、一般的な博物学に興味を持つ人々に共通した思想になってしまうのは好ましくないのです。

大英自然史博物館所蔵のエレファスゾウカブトのコレクション。この箱だけでも約1/4程の個体にラベルが付いていない状態だった。ラベル落ちの標本も、大切に保管されている。
■標本がもつ潜在的可能性
いつの時代も「研究サンプル(標本)を未来の研究者へ受け継いでいくこと」は極めて大切であり、そのために昆虫標本の作製文化が存在し、博物館がその貯蔵庫として役割を果たしているのです。
自然界において生物というものは、絶えず生まれ、そして消えていきます。
江戸時代には野山で普通に見ることが出来たニホンオオカミも、今や絶滅種です。研究したくてもサンプルがこれ以上増えないわけですから、過去に得られた標本を調査するしかありません。
その昔は普通種だと思われていた種であっても、いつどこでそれが研究上貴重なサンプルになるかなど、だれも未来の予測はできないのです。サンプルがあるから研究が出来る、だからこそ「可能性を未来に託す」ため、今現在の判断で必要性の有無をはかってはならないのです。
欧州の博物館や大学の昆虫標本コレクションを調査していると、ラベルのない標本や、ボロボロになって体の一部のパーツが台紙に張られているだけ、といった標本をよく目にします。
以前ロンドンの大英自然史博物館で標本の整理を任されていた際に、あまりにもボロボロなものばかりが入った標本箱を見つけました。当然ラベルも個々の標本には付いておらず、唯一あったのは「断片」を意味する「fragments」という単語が書かれた簡素なメモ1枚のみ。
そこで、博物館のコレクション管理者であるバークレー主任学芸員に「これらの標本を捨てることはないのですか?」と質問してみました。
すると、
「いかなるコンディションであろうと捨てるようなことはないよ!」
とはっきりと断言されました。

18世紀後半の博物学史において最も重要なキーパーソン、植物学者バンクスがかつて所有していた昆虫標本コレクション。手に取るバークレー主任学芸員は、どれ一つ欠けることなく次の世代へ継承する大切さを話していた。
■サンプルを保持するという重要性
大英自然史博物館のバックヤードの最奥部には「歴史的コレクションエリア」と呼ばれる区画があります。ここは一般の学芸員では入ることが出来ない、主任学芸員クラスのID認証による厳重なセキュリティによって守られている博物館の聖域です。そこには「種の起源」のダーウィンや、王立協会の会長バンクスといった、歴史上の著名な博物学者たちが残した、貴重なコレクションが眠っています。
それらのコレクションのうち、例えば最も古いもののひとつである17世紀後半のロンドンの博物学者ジェイムス・ペティヴァーのコレクションを見てみると、なんとそれらの標本にはほとんどラベルが付いていません。18世紀の植物学者ジョセフ・バンクスのコレクション中には細長い短冊状のラベルがみられますが、そこに書かれているのはせいぜい国名のみ。
中には「Amerika(アメリカ)」としか書かれていないものも。「アメリカ」だけでは、それがニューヨーク近郊の北アメリカなのか、それとも熱帯雨林が広がる南アメリカなのか、さっぱり見当がつきませんね。
しかし、これらの「ラベル落ち」現象はなにも驚くことはなく、17世紀~19世紀中期ごろ標本では、いたって普通に見られることなのです。
それもそのはず、当時はまだ民間旅客機などもなく、パイレーツ・オブ・カリビアンで登場するような巨大な帆船で命がけの航海をしながら標本がヨーロッパにもたらされていた時代。そうなると正確な場所も、採集された日付も、採集者もわからない、なんてことはむしろ普通なのです。だからこそ、ラベルを書かないのではなく、ラベルが書けなかった(&当時はまだ科学が発展していなかったので詳細なデータがそこまで必要でなかった)のです。
ではこれらの「ラベル落ち」標本は無価値なのでしょうか?答えは違います。
これらは情報が不正確な標本であったとしても、数少ない当時を知るための貴重なサンプルであることには変わりありません。これらの標本は実際に博物学者たちによって記載(名前を付けること)に使用され、さらに後の時代にはレクトタイプに指定されるなど、学術的に極めて重要な価値を持つことになります。

バンクスコレクション中の巨大蛾ヨナグニサンの仲間。バンクスのコレクションは、これでもまだ同年代の他のコレクションと比較するとしっかりラベルがついている方。
■不要なら捨ててもいい?
1800年代初頭に、大英自然史博物館の動物コレクションの管理者となったジョージ・ショーという人物がいました。彼は博物館に常設展示されいた、ペティヴァーのコレクションを見つけました。それらは開館以来50年もの間展示されており、紫外線による日焼けや虫食われで酷い状態になっていたのです。
航海の技術も発達し、50年前は珍品とされていた昆虫も数多く手に入る時代になりました。そこでショーは、これらのひどい状態に晒されていたみすぼらしい標本を、なんと博物館の中庭で焼却処分してしまったのです。
この出来事のせいで、ペティヴァーが生前に数千頭所持していた昆虫コレクションは、僅か標本箱2箱分ほどになってしまいました。もちろんその中に含まれていた、分類学上きわめて重要な標本も失われてしまったのです。
当時のショーはきっと、博物館の予算やお客さんへの配慮などから、総合的に判断して焼却処分するのも致し方なし、と考えたのでしょう。しかし現代の我々からしてみれば、歴史上最古ともいえるペティヴァーによる貴重な1600年代の標本が失われてしまったわけですから、ショーの行いは愚行であったと評価せざるを得ません。
ラベルがなかったとしても、後世の研究によって、形態的特徴や歴史的検証によって、産地や採集年が特定された事例はいくつもあります。つまりラベルの有無云々の前にまず、「実物がある」というありがたみを理解することが大切なのではないでしょうか?
もちろん、ラベル落ちの標本であったとしても捨てずに保管することが出来るのは、資金が潤沢であり、しっかりと管理することが出来る施設に限定されていることも事実です。
残念ながら昨今の日本においては、資金的な問題により維持することが出来ず、泣く泣く破棄を迫られる博物館も存在します。昆虫標本は湿度や光に弱く、質の良い状態で保管するのにはお金も手間もかかるわけです。
しかしここで「ラベル落ちは無価値だから」という免罪符を与えて破棄を許してしまうと、それこそショーが博物館の中庭で標本を焼却処分してしまった惨劇を繰り返してしまうわけです。「研究に使えるかどうかわからないけど、とりあえず将来のために保管しておきましょう」というマインドが大事であるわけです。
標本を守り抜いていくためには、我々が声を大にしてその重要性をしっかりとアピールしていかなければなりません。だからこそ、それが科学研究での使用という面では事実だとしても、やはり「ラベル落ちの標本は無価値」と叫ぶのはいろいろな面で得策ではないのです。

博物学者ジョージ・ショー(George Show)。彼自身は様々な著作を残した優れた博物学者であった。
■ラベル落ち標本の活用方法
また、ラベルが無い標本であろうと、その虫自体が人間に与えるきらめきや感動は不変であるという点も忘れてはなりません。
普段あまり昆虫という文化に触れる事の少ない層へ向けての展示にするもよし、または美術的な美しさからアート作品のモチーフにするも良し。その標本の価値を見だすのは「人」にあり。それは決してラベルという紙切れ一枚で決まるものではないのです。
人間の都合で命を奪っておき、人間の不手際によってラベルを損失してしまった生命の器。それに対して「ラベルのない標本は無価値」呼ばわりすることは、生命への冒涜と言えるのではないでしょうか。
命を奪ってまで標本として残す決断をしたのは、我々人間です。
研究者、そしてコレクターたちの「連帯責任」として、今一度標本が本来もつ価値について考え直してみるのもいいかもしれませんね。

当店花滝では今年「虫供養」を開催予定。「死ぬまでに見たい!日本の絶景100」に選出された秋田県の雲昌寺にて6月中に開催予定。