「ラベル落ちの標本は無価値」という認識を改めよ

 一般的に「ラベル落ち(なし)の標本は価値がない」という言葉を定型文のように聞く。この言葉が独り歩きしたせいか?それなりに名のある方がSNS上で「ラベルがない標本だったので全て破棄しました」といったような投稿をされていたのを見て、大変衝撃を受けた。この際声を大にして言いたい、「ラベル落ちの標本にも価値がある」と。

 なぜラベル落ちは無価値と言われてしまうのか?これはご存じの通り、標本におけるラベルというのはその個体が学術的な研究に使用される際に必要不可欠な情報だからである。ラベルの欠損は種を同定する事さえ困難にさせてしまうため、我々虫屋は標本作成という文化に初めて触れたその日から、「ラベルを必ず書こう」と口酸っぱく言われるのである。

 しかしいつの日からかラベルを書く事は確かに大切であると理解しつつも、何故かそこから「ラベルの無い標本は無価値」とだいぶ跳躍した概念が定着してしまったように思える。ラベルは確かにあるに越した事は無いが、もし仮に存在しなかったとしても、その標本自体が生物を研究する上で極めて重要なサンプルであるという事実にはなんら変わりがないという事実を見逃している人間のいかに多い事か…。

 19世紀より昔の標本になると、ラベルの付いていない標本の数は極めて多くなる。現在ラベルに記入する主な最低必要要綱といえば1.採集場所2.採集年月日3.採集者この3つくらいであると思う。しかし民間旅客機などなかった当時は、現地の人間が採集したものを長い時間をかけて船で運んでくる。そうなると正確な場所も、採集された日付も、採集者もわからない…なんてことは日常茶飯事であったのだ。しかしこれらの情報が不正確な標本でも当時は数少ない貴重なサンプルには違いない。実際に記載に使用され、それらは将来的にレクトタイプに使用されるなど、学術的に極めて重要な価値を持つ事になる。仮にラベルがなかったとしても、後世の研究によって形態的特徴から、そしてその標本がもたらされた経緯がわかる文献から、産地や採集年が特定された事例はいくつもある。

 欧州の博物館や大学のコレクションを調査していると、ラベルの無い標本やボロボロになって体の一部のパーツが台紙に張られているだけ、といった標本をよく目にする。以前大英自然史博物館で調査をしていた際に、整理していた箱に含まれた標本があまりにもボロボロなものばかりであったので(それらには「断片」を意味する’fragments’という簡素なメモ1枚がついていただけであった)、コレクション管理者であるバークレー氏に「こういった標本を捨てる事はないのだろうか?」と尋ねてみた。すると、いかなるコンディションであろうと捨てる事はない。とはっきり断言されたことを鮮明に覚えている。もちろんこれは資金が潤沢であり、世界最大規模の博物館であるからなせる所業であるということも理解できる。昨今の日本の財政状態を鑑みるに、時には維持管理費用の不足につき仕方なく取捨選択を強いられる場面に遭遇するかもしれない…。

 しかしそういった問題とは別にラベルの有無に固執している方々は、ラベルの有無云々の前にまず「実物がある」というありがたみを理解する事が大切なのではないだろうか?標本というのもは現在の所持者の死後に、だれによってどのような研究に使われるかわからない。今破棄しようと考えている標本が将来的にその地域で絶滅し、現存する数少ないサンプルになってしまった…という未来も十分に予測可能である。そういった場合、ラベルの有無など関係なしに学術的に重宝される存在になるのは必然だ。また、ラベルが無い標本であろうと、その虫自体が人間に与えるきらめきや感動は不変である。普段昆虫という文化に触れる事の少ない層へ向けての展示標本にするもよし、または美術的な美しさからアート作品のモチーフにするも良し。その価値を見だすのは「人」にあり、それは決してラベルという紙切れ一枚で決まるものではない

 とある人間が「ラベルの無い標本はゴミ」と発言しているのを見かけた。人間の都合で命を奪っておき、人間の不手際によってラベルを損失してしまった生命の器に対して「ゴミ」呼ばわりすることはあまりもの生命への冒涜的行為であり、残念に思う。命を奪ってまで標本として残す文化に手を染めた我々コレクターの「連帯責任」として、今一度標本が本来もつ価値について考え直してみるのもいいかもしれない。

​大英自然史博物館蔵(Coll. NHML)。この箱だけでも約1/4程の標本のラベルが欠損していた。しかし標本を破棄してしまうと後の研究で実はその標本が重要なものであったことが判明する場合の多い。ラベルというたかが紙切れ1枚で標本の価値がゼロになることは決してない。