top of page

 【第3回】小林社長の思想強め昆虫講座

​虫をぶっ殺して何が悪い? ─標本蒐集の道に生きる、命を奪う覚悟─

Last update: 23. Oct. 2026.

Text: Kazuho Kobayashi

​学術のため??アホぬかせ!

​

昆虫を殺して標本にすることについて、皆さんはどう考えますか?かわいそう?それとも仕方のないこと?


最近、採集や標本という趣味について、「命を奪ってまで行う価値があるのか?写真では駄目なのか?」といった議論を目にする機会がありました。


こうした話題になると、決まって愛好家たちから出てくるのが「昆虫標本には学術的価値がある!!」という主張です。愛好家はこの学術的な利用に大義がある、と主張しているわけですね。

​

・標本は研究に不可欠であり、写真だけでは確認できない部位の観察や、遺伝子解析にも利用できる

・展示や教育活動を通じて、自然科学への理解を深める役割も果たしている

​・etc.


まあ、その通りだと思います。特に異論はないです。


ここで少し私の自己紹介をさせてください。

私はこれまで何本か英語で論文を書いたり、新種も記載してきました。わざわざ昆虫学のために本場イギリスの大学を受験して、動物学も修めました。今では標本を販売する標本商として会社をやったり、専門学校で昆虫学を教えたりしています。

​

私の経歴、少しおわかりいただけましたでしょうか。

まだまだ駆け出しの浅学の身であることは確かです。まあそれでも一つ言えるのは、客観的に見ても普通の人よりはアカデミックサイドに立ってガッツリ標本というものに関わってきた人生に違いないということです。

​

そんな標本と切っても切れぬ縁にある立場の私から、あえて言わせていただきたいことがあります。

​

「学術のため、学術のため」って、そんな綺麗事ばかり並べてどうするんですか?


なんというかですね、こうした倫理的な問題が挙がった際に、それに対するアンサー/カウンターとして「学術のため」という大義名分をかかげるのは、少しズレている気がしてならないのです。

 

私が思うに、「学術のため」というのはキラーカードですよ。遊戯王だったら制限・禁止になっているレベルの最強カードだと思います。

だってもし「学術なんてどうでもいい!」と反対するような人がいれば、その人は社会から「愚かな人」というレッテルを貼られるわけですからね。そう考えると、学術のためと言われたら反論することなんて出来ないでしょう?


なのでそういった「最強カード」を振りかざして、はい議論終わり!ってのはないんじゃないですか?水戸黄門の印籠じゃないんだから。もっと倫理的かつ、社会的に俯瞰した際の昆虫標本文化についての是非について建設的な議論がなされるべきです。

​

​

IMG_5528.JPG

​「学術のため」というのは、ルターも一目おくレベルの免罪符。この言葉を発するタイミングには気を付けたいところ。

「快楽のための殺生」を受け入れろ!

では私がなぜ標本作成のために尊い昆虫の命を奪っているかというと、それは結局、己の快楽や欲望のためなんですよね。


まず最初に「楽しいから」という理由が来ます。「学術のため」というのはその次であり、割合にしてそこまで高い比重を占めるものではありません。
さらに言ってしまえば「学術のため」という大義の中にも、多かれ少なかれ、学術的活動を通して己の快楽的欲求を満たすためという理由が混在しているのですよ。私も研究をしますが、なぜ研究するかというとそれは「楽しいから」ですね。新しい発見に気が付いたときは興奮して、脳汁が止まらんのです。


中には学術活動によって人類のため貢献したい!という高い志をもった人もおられるのかもしれませんが、そんな人は私の知る限り稀です。昆虫学をやってる人の多くは、昆虫が好きで楽しいからという理由で学問をやっています。

SNSで情報を集めたり、フィールドに出て採集する。これらの活動をするにあたって、皆さんが真っ先に考えるのは「学術のため」ですか?いやいや違うでしょう。「楽しいから」、やってるんでしょ?楽しみのために虫をぶっ殺してるんでしょう?


もっとも、皆さんはこの業界が社会から白い目でみられないように、「「 あ え て 」」学術的価値という絶対的な盾を構えておられるのかもしれません。なにせ標本という趣味は随分と奇妙で、世間一般からすれば理解し難いものでしょうからね。オブラートに包まずいうと、要するに「キモい」部類の趣味です。

 


「己の快楽のために虫をぶっ殺して標本箱に詰めます!!標本最高!バカおもろい!!!笑」

 


なんて、口が裂けても言えないでしょう。

​

なのでそこで「学術のため」というフィルターを使う。学術という言葉は聞こえがいいし、その存在意義が世間的に認められていますからね。


そういった意味では、学術性を前面に押し出す皆さんは極めて聡明なのです。標本商を生業にして、こんなコラムを書き散らし、好き勝手に暴れまわってる私よりも、皆さんの方がよっぽど社会に迎合した大人な対応をされておられますよ。

​

しかし同時に、私は思うのです。
自分が楽しいから昆虫を殺している。その事実から、なぜ目を背ける必要があるのでしょうか?

将来的に学術的価値を持つ可能性があることと、今まさに自分が趣味として命を奪っていることは、別の話です。
 

誰のための学術活動?

学術的活動によって自然を守るという一見すると利他的な行為でさえ、その根底には人間自身の利益が存在しています。

研究のため、教育のため、自然科学の発展のため。それらは確かに重要です。


しかしその先にあるのは結局、人間が知識を得て、好奇心を満たし、平和で豊かな生活を送るという、自身のための営みではないでしょうか。
ケガや病気のない、安心した生活を送りたいでしょう?そのために学術活動をするのです。


別に不幸になってもいい、人間など滅べばいい!という破滅思想であれば学問を破棄するのもうなずけますが、そうではないでしょう。

つまり端的にいうと、学問という心地よい響きの根底には、「人間が豊かで快楽に満ち溢れた生活を送るため」という原動力が備わっているのです。

 

​

DSC07398.JPG

あなたは生き続けているかぎり、命を犠牲にし続ける

​

昆虫を殺して標本にするなんて残酷だ。命を奪ってまで自分の趣味を楽しむなんて許せない。
そう非難される方、それはブーメランになってあなたに返ってきますよ。

あなたはご自身の生活のため、快楽のため、命を犠牲にして生きている。その事実を受け入れるべきです。

​

例えば、あなたが普段利用している道路。その道路を建設する際には、そこに生息していた無数の昆虫や小動物が犠牲になったことでしょう。あなたの支払う税金や交通料金によって道路は拡張を続けるわけですから、あなたも間接的に命を奪っている側の人間なのですよ。

​

あるいは、今日はちょっと贅沢をしてステーキでも食べようか、と思ったとします。
そのステーキはあなたの食欲を満たすために命を奪われた牛の肉です。

​

「いや、食べることは生きるために必要だから、これは意味がある殺生なんだ!」

​

そう反論しますか??
しかし別に食べるにしてもステーキである必要はないじゃないですか。栄養を摂取する方法はいくらでもあるのに、あえて牛肉を選ぶのは、それを食べて快楽を得たい、というあなた自身の欲望があるからでしょう?
味のないパサパサの栄養食より、A5ランク神戸牛の美味しいステーキを食べたい!と思うはず。ほら、あなたはご自身の快楽のためにステーキを食べているじゃないですか?

​

夜9時のスーパーの鮮魚コーナーで、半額シールを貼られて売れ残っている魚を見たとき、皆さんはどれほどの罪悪感を覚えるでしょうか。
私は人間の一瞬の快楽のためだけに命を奪われ、しかもそれがその役目を果たさずに、まさに今「無駄死に」になろうとしている瞬間に立ち会うと気持ちが滅入りますよ。

​

腕に蚊が止まれば叩き潰し、ゴキブリが出たら駆除する。
自分の快適な生活を守るためであれば、私たちは案外あっさりと生き物の命を奪う生き物です。


私はヴィーガンだから、自然愛好家だから、というのは理由になりません。
人類がこの世にいつづける限り、命は消費され続けていくのです。そして可能な限り快楽に満ちた一生になるよう、身の回りの環境を変えてゆくのです。
​

​

それなのに、昆虫標本という趣味に対してだけ「快楽のために命を奪う必要があるのか」と問いかけるのであれば、その判断基準についても説明が必要ではないでしょうか。
あなたも私の仲間です。あなたも一瞬の快楽を得るために尊い命を容赦なく奪い取る、ニンゲンという恐ろしい生き物ですよ。間違いありません。

​​

DSC02125_1.jpg

​

医師は命を「救う」ことを生業としています。
その一方で漁師や害虫駆除業者、あるいは道路工事に携わる人々は、命を「奪う」ことで生活をしているのです。とても分かりやすい対比ですね。

​

では、命を救っているから、医者の方が偉いのですか?
いえいえ。命を救うも奪うも、それは両方人間の生活において欠かせないことです。
ひょっとしたらあなたは「救う」側の職業に就いている人間かもしれませんが、標本商の私は「奪う」側の人間だった。ただそれだけのシンプルな話です。

​

まあこれは屁理屈みたいなものですが、それでもなお、命を奪うことに対して否定的な価値観をお持ちであれば、私より先に農家や漁師の皆さんに文句を言われたほうがいいのではないでしょうか?私が殺す昆虫の数などたかが知れています。しかし世の中には年間に数千、数万の命を奪う職業に従事されている方もおられますよ。


それらの命の犠牲の上に我々の社会的基盤が形成されているわけですから、その事実から顔をそむけてはいけないのです。

​

もちろん、命を大切にするという倫理観は絶対に尊重されるべきです。しかし、それを理由に他人の趣味を批判するのであれば、まずは自分自身がどのように他の生物の犠牲の上で生きているのか、考えてみてもいいのではないでしょうか。


あなたはご自身の快楽のために命を奪いながら生きている。そしてそれは、私小林が自身の快楽のために標本として命を奪うことと、本質的にはなにも変わりがないのです。

俺は地獄に落ちる覚悟がある

私は高校時代、仏教系の学校に通っていました。仏教思想や哲学には関心があり、現在でも全国各地の寺院を訪れて仏像を拝んでいます。したがって、命を奪うという行為について、何も考えずに昆虫を殺しているわけではありません。
むしろ普段から昆虫の命を扱っているからこそ、その意味について考える機会は、おそらくこのコラムを読んでいる多くの皆さんよりも多いとさえ思っています。

​

​皆さんは腕に止まった蚊を叩き潰したあと、どうしてますか?私は勝手な都合で命を奪ってしまった罪悪感と、その命に対するせめてもの敬意として、必ず南無阿弥陀仏を心の中で念じていますよ。まあもっとも、これで罪を帳消しに出来るとは思っていませんが。

​

仏教には不殺生という戒めがありますよね。生き物の命を奪うことは、決して軽々しく扱ってよい行為ではありません。
そう考えると、これまで無数の昆虫を殺し、これからも殺し続けようとしている私は、おそらく地獄行き確定なのでしょう。
閻魔大王に裁かれる日のことを考えると、恐ろしくて眠れませんよ。


京都のお寺でありがたく仏様を拝んでいるくせに、帰ってきたらペルーから届いた新着標本に目を輝かせているわけですから、我ながら随分と業の深い人間だなぁと思う次第です。

​

しかしたとえ地獄行きが確定していようとも、世間一般から白い目で見られようとも、私はこの趣味を絶対にやめることはありません。

​

​

なぜなら、私には覚悟があるからです。

​

​

私は昆虫の命を奪うことを否定しませんし、それを正当化するために、いちいち学術的価値という大義名分を持ち出すつもりもありません。私は、「自分自身の快楽のために昆虫の命を奪っている」と、あなたの目を見てはっきりと宣言できます。

​

​

​​

編集_DSC_5105.JPG

高校時代は密教系の高校でした。不動明王などの明王が大好きです。マニアックな話で恐縮ですが、先日トーハクで開催された空海展の五大力菩薩三幅には感動しました。ボストン美術館の大威徳明王ビゲローコレクションに匹敵する、圧倒的な威徳を感じましたね。

​揺るぎない俺の覚悟を見よ

昆虫という生き物は本当に素晴らしい。
その形態も色彩も実に多様で見飽きない。そんな昆虫を手に取り、標本にして、箱の中に並べて眺める。それが楽しいのです。

ずっと欲しかった標本を手に入れたときなんて、そりゃもう興奮して眠れませんよ。私にとって、昆虫標本の蒐集は人生を豊かにしてくれる最高の道楽です。

​

そして、同じような幸福を感じている人が世界中にいることも知っています。

​

だからこそ、私はこの文化に誇りを持っています。標本は人生を豊かにしてくれるための最高の趣味だ、と。美味しい和牛を育てる農家の方や、生活のために道路を整備してくれる方と同様に、標本商は我々の人生を豊かにしてくれる誇らしい存在なのです。

ですので、私は視覚を通じて人々を楽しませるこの素晴らしい標本文化が、もっと世間的に評価され、むしろ今より拡大してほしいとさえ願っています。

​​​

​

「「そんなの知らん!やっぱり標本のために殺すなんて残酷だ、命を奪う趣味なんて理解できない!小林は最低な人間だ!!!」」

 


そう思います?そうかなぁ...じゃあもう何でもいいですよ。私はそう思う方の価値観も否定しません。どうぞ、いくらでも叫んでください。私のことは好きなだけボロカス言ってSNSに投稿していただいて結構。

まあでも一つ断っておくと、そうした批判がいくらあったとしても、私の信念は一ミリたりとも揺らぎません。

​

もちろん、だからといって何でも好き勝手に乱獲して標本にしてよいという話ではありません。法令や保全上の制約を守ること、採集対象や採集地に配慮することは当然必要です。特に近年、マナーなどについて問題になっていることは皆様ご存知の通りです。
しかし、そうした責任を果たした上で昆虫標本を楽しむという文化そのものを、私は決して否定したくありません。

​

命を奪うという事実から目を背けず、その命に感謝しながら、自分の趣味に誇りを持つということ。
それが私なりの昆虫標本との向き合い方であり、ゆるぎない覚悟であります。


必要とあらば三島由紀夫ばりに、私の覚悟について皆さんの前で大声で演説でもしますよ。ぜひお声かけください。ついでに東大の教室で討論もやりましょうか?

​​

​​​
 

P7127882 - コピー.JPG

私はこれからも、死ぬまで昆虫標本を蒐集し続けるでしょう。そしてこの趣味を通じて、自然界の素晴らしさを知る人が一人でも増えてほしいと思っています。
そのために標本商として、皆さんが昆虫標本という道楽を心から楽しめるよう、これからも全力でサポートしていくつもりです。

 

花滝は「大人の趣味としての昆虫標本」をキャッチフレーズに活動しております。今後も昆虫標本蒐集カルチャーの格上げのため、昆虫業界の更なる発展のため発信を続けて参ります。どうぞよろしくお願いいたします。

​
 

IMG_4071.jpg

​「画家のアトリエ」ギュスターヴ・クールベ(1855)。2026年10月上旬、オルセー美術館にて。

※本コラムは「思想強め昆虫講座」の名の通り、代表取締役・小林一秀の個人的見解を多分に含みます。内容は必ずしも株式会社花滝ナチュラルアーツの公式見解を示すものではありません。
 

bottom of page